感情モニタリング その1
2011年10月7日 日常 もともと、つらかったり苦しかったりするのをどうにかしようと調べ始めたものだ。
そういった「感情の始末」は、結構昔からいろいろ考えられていて、普通にやるならフォーカシングが一般的だろう。今は壷イメージ等もある。
しかし、俺はひねくれ者なので、外観が瞑想に近いものとして、感情モニタリングを調べてみた。
また、こういう脳血管障害になってしまっては、体の本能に全面的信頼を置く、フォーカシングでは対応しにくいのではないか。(たとえば幻肢痛とか対応可能?)
原案者の河野良和氏の著作はわかりにくい。というのは、理論的でなく感覚的で、非常にあいまいに書かれているからだ。
そこで、以下、自分で理解したなりに書き直したり、他の技法との比較などを書いてみることにする。
少なくとも俺はそうしないと前に進めないようである。
(なお、以下は都留弘子氏による成果も一部含む)
まず事前準備として、身体感覚とそれに反応して生じる感情を感じてみることだ。
これはあんまり実用的とは思われないのだが(感覚が鋭敏になる効果はあるかも)、自分にどういう事がおこってるのかを客観的分析的に見るクセをつける(っていうか)にはいいのだろう。
ここで注意すべきは、最初は手触りなどのとっつきやすいのから始め、特に感情や気分が浮かんでこなくても、それでOKということだ。
視覚や嗅覚がちょっと難しいのではないかと思う。
視覚は大量の情報があって気が散ってしまうし、嗅覚は一番原始的な感覚で、過去のイメージ(+引き起こされる感情)と非常に結びつきやすいからだ。
しかしながら、繰り返しやっていけば、身体感覚から直接、反応的に生じる感情は、特に生理的不快感を生み出すものは別にして、たいてい単にそれだけのなんともないものであって、特に大きな感情と結びつかないものであることがわかるはずだ。
ここまでがとっかかり。
次に、まだ段階は早いのかもしれないが、話の核心へ進もう。
なぜ悩みや苦しみがあるかというと、記憶だったり思いだったりが、反応的になんらかの感情を引き起こし(以後、反応的感情という)、さらに、反応的感情を包括的に取り扱っている?(意識する?)上位の自分が、その感情を持ってることそのものを嫌がって、新たに生み出される上位のネガティブな感情や気分(態度性感情という)を感じてしまうからだ。
イヤなのがイヤなのであり、不快が不快を雪だるま式に大きくしていくのである。詳しく説明するつもりはないが、これにはたいていの人が賛成してくれるのではないか。
逆の例がわかりやすいかもしれない。
悲しい物語の映画などを見て泣いているのだが、すばらしくすっきりした幸せな気分になったりする。
これは、反応性感情は悲しみだが、態度性感情はポジティブで、反応性感情を、自分のその態度を、嫌がっていないからだ。
だから、次にやることは、映画を見てその悲しみの渦に巻き込まれることなく、一歩(二歩?)引いて、ひとつ(ふたつ?)外側(あるいは上?)から、その悲しみの渦(反応的感情)を感じ取っている上位の自分があることを意識し、それがどういう気分・感情になっているか、問いかけ気づき味わうことである。
この例ではポジティブなので、なんとも幸せな気分なはずで、その場合はその感情にひたってかまわない。存分に味わってください。
つまり、感情の二重構造に気が付くことがまず最初の目的なのである。
これが最初の身体感覚とどう結びつくかというと、身体感覚が何かを思い出させ(あるいは想いを発生させ)、それに反応的感情が生じ、そしてそれによる態度性感情はどうなのか?、ということになる
想いを起こす一瞬前に、感覚そのものの感情が発生するのかもしれないが、今問題としている件とはあんまり関係ない。なので無視してかまわない。
しかし、このメカニズムをしっかり理解しないと、河野氏の著作は読んでて混乱し、つまずくことになる。
では、もし態度性感情がネガティブだったらどうするか。
(続く)
そういった「感情の始末」は、結構昔からいろいろ考えられていて、普通にやるならフォーカシングが一般的だろう。今は壷イメージ等もある。
しかし、俺はひねくれ者なので、外観が瞑想に近いものとして、感情モニタリングを調べてみた。
また、こういう脳血管障害になってしまっては、体の本能に全面的信頼を置く、フォーカシングでは対応しにくいのではないか。(たとえば幻肢痛とか対応可能?)
原案者の河野良和氏の著作はわかりにくい。というのは、理論的でなく感覚的で、非常にあいまいに書かれているからだ。
そこで、以下、自分で理解したなりに書き直したり、他の技法との比較などを書いてみることにする。
少なくとも俺はそうしないと前に進めないようである。
(なお、以下は都留弘子氏による成果も一部含む)
まず事前準備として、身体感覚とそれに反応して生じる感情を感じてみることだ。
これはあんまり実用的とは思われないのだが(感覚が鋭敏になる効果はあるかも)、自分にどういう事がおこってるのかを客観的分析的に見るクセをつける(っていうか)にはいいのだろう。
ここで注意すべきは、最初は手触りなどのとっつきやすいのから始め、特に感情や気分が浮かんでこなくても、それでOKということだ。
視覚や嗅覚がちょっと難しいのではないかと思う。
視覚は大量の情報があって気が散ってしまうし、嗅覚は一番原始的な感覚で、過去のイメージ(+引き起こされる感情)と非常に結びつきやすいからだ。
しかしながら、繰り返しやっていけば、身体感覚から直接、反応的に生じる感情は、特に生理的不快感を生み出すものは別にして、たいてい単にそれだけのなんともないものであって、特に大きな感情と結びつかないものであることがわかるはずだ。
ここまでがとっかかり。
次に、まだ段階は早いのかもしれないが、話の核心へ進もう。
なぜ悩みや苦しみがあるかというと、記憶だったり思いだったりが、反応的になんらかの感情を引き起こし(以後、反応的感情という)、さらに、反応的感情を包括的に取り扱っている?(意識する?)上位の自分が、その感情を持ってることそのものを嫌がって、新たに生み出される上位のネガティブな感情や気分(態度性感情という)を感じてしまうからだ。
イヤなのがイヤなのであり、不快が不快を雪だるま式に大きくしていくのである。詳しく説明するつもりはないが、これにはたいていの人が賛成してくれるのではないか。
逆の例がわかりやすいかもしれない。
悲しい物語の映画などを見て泣いているのだが、すばらしくすっきりした幸せな気分になったりする。
これは、反応性感情は悲しみだが、態度性感情はポジティブで、反応性感情を、自分のその態度を、嫌がっていないからだ。
だから、次にやることは、映画を見てその悲しみの渦に巻き込まれることなく、一歩(二歩?)引いて、ひとつ(ふたつ?)外側(あるいは上?)から、その悲しみの渦(反応的感情)を感じ取っている上位の自分があることを意識し、それがどういう気分・感情になっているか、問いかけ気づき味わうことである。
この例ではポジティブなので、なんとも幸せな気分なはずで、その場合はその感情にひたってかまわない。存分に味わってください。
つまり、感情の二重構造に気が付くことがまず最初の目的なのである。
これが最初の身体感覚とどう結びつくかというと、身体感覚が何かを思い出させ(あるいは想いを発生させ)、それに反応的感情が生じ、そしてそれによる態度性感情はどうなのか?、ということになる
想いを起こす一瞬前に、感覚そのものの感情が発生するのかもしれないが、今問題としている件とはあんまり関係ない。なので無視してかまわない。
しかし、このメカニズムをしっかり理解しないと、河野氏の著作は読んでて混乱し、つまずくことになる。
では、もし態度性感情がネガティブだったらどうするか。
(続く)
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