夢について
2002年9月9日 ロクな夢を見ない私ですが、最近見るのは特に面白くないです。
たとえば、「ゴルフバッグの一部を犬に齧り取られる」とか「髪の毛が半分白くなる」とかなんですがね。
特に私は遺伝的にハゲにも白髪にもなりそうもないのですが、その自慢の?黒髪が白くなるというのはちょー問題です。
それはそれとして、黒澤カントクの「夢」。これはですね、ぜひ漱石の「夢十夜」と見比べていただきたいと思います。
実は、両方ともそのうちの1つの話しか知らないんですが、私の考えをここに書いてしまいましょう。
まず、無意識から生まれてくるものは、そのままでは芸術になり得ません。
たとえばある種の妄想的なファンタジーや絵画。これらは圧倒的な力を持っていますが、これ(無意識)に飲み込まれると完全にあっちの世界へ行ってしまいます(ジョイスの娘やゴッホがその例です)。
その点、夢は、意識が把握できて初めて夢として記憶に残るものなので(悪夢などまるで憶えてないものがありますよね)、なんらかの解釈、洞察が可能です。
といっても言語的な説明とは限らず、「腑に落ちる」というか、何か心に残る感覚があるはずです。
ただ、基本的には夢は個人的なもので、見た人へのメッセージであることは当然です。
で、もうお分かりだと思いますが、夢を題材にする際、そのまま使っても作者の個人的な無意識パワーを感じ取ることはできます。しかし、それを万人に腑に落ちるようにするには相当な意識の関与、つまり解釈・言語化・洞察と、それに基づく夢(シチュエーションやストーリーなど)の改変が必要となります。
そういう意味で、漱石の「夢十夜」は「万人に腑に落ちる度」において、古今東西の名作ではないかと思っているのです。
もし、漱石がほとんどそのままあれだけ汎化された夢を見たとすれば、これは彼の意識の強さと無意識との無矛盾を感じさせます。まるで聖人でありましょう。
一方、黒澤カントクの「夢」ですが、映画ならではの映像の力は認めますが、それに頼りすぎて、イマイチ意識の関与が不十分な気がしてなりません。
あくまで個人的な夢であって、どの時代のどの国でも通用するような普遍性が(漱石と比べて)比較的弱いように思われるのです。
たとえば、「ゴルフバッグの一部を犬に齧り取られる」とか「髪の毛が半分白くなる」とかなんですがね。
特に私は遺伝的にハゲにも白髪にもなりそうもないのですが、その自慢の?黒髪が白くなるというのはちょー問題です。
それはそれとして、黒澤カントクの「夢」。これはですね、ぜひ漱石の「夢十夜」と見比べていただきたいと思います。
実は、両方ともそのうちの1つの話しか知らないんですが、私の考えをここに書いてしまいましょう。
まず、無意識から生まれてくるものは、そのままでは芸術になり得ません。
たとえばある種の妄想的なファンタジーや絵画。これらは圧倒的な力を持っていますが、これ(無意識)に飲み込まれると完全にあっちの世界へ行ってしまいます(ジョイスの娘やゴッホがその例です)。
その点、夢は、意識が把握できて初めて夢として記憶に残るものなので(悪夢などまるで憶えてないものがありますよね)、なんらかの解釈、洞察が可能です。
といっても言語的な説明とは限らず、「腑に落ちる」というか、何か心に残る感覚があるはずです。
ただ、基本的には夢は個人的なもので、見た人へのメッセージであることは当然です。
で、もうお分かりだと思いますが、夢を題材にする際、そのまま使っても作者の個人的な無意識パワーを感じ取ることはできます。しかし、それを万人に腑に落ちるようにするには相当な意識の関与、つまり解釈・言語化・洞察と、それに基づく夢(シチュエーションやストーリーなど)の改変が必要となります。
そういう意味で、漱石の「夢十夜」は「万人に腑に落ちる度」において、古今東西の名作ではないかと思っているのです。
もし、漱石がほとんどそのままあれだけ汎化された夢を見たとすれば、これは彼の意識の強さと無意識との無矛盾を感じさせます。まるで聖人でありましょう。
一方、黒澤カントクの「夢」ですが、映画ならではの映像の力は認めますが、それに頼りすぎて、イマイチ意識の関与が不十分な気がしてなりません。
あくまで個人的な夢であって、どの時代のどの国でも通用するような普遍性が(漱石と比べて)比較的弱いように思われるのです。
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