伝統芸能について

2002年7月4日
 今日は珍しく電車に乗っていたんですが、能の広告が出てました。
 で、それがかなり高額なのに驚いたわけなんですが、ちょっと考えまして、すぐに高いのは気にならなくなりました。
 というのは、まあ欧米でもそうなんですが、もともとこういうものは「芸術」という名がついた時点でいわゆるパトロンに保護されて存在するものでして、身分的に私のような人間が見るものではないわけです。
(歌舞伎や狂言は本来庶民のためのものでしたが、その当時は娯楽であり「芸術」とはいわなかったはずです)
 
 それが今では、どのような仕組みで成り立っているのかは知りませんが、お金さえ出せば誰でも見れる、という非常に結構な時代になっているのではなかろうか、とかように思うわけでございます。
(ただし税金で補助するのは勘弁してね)

 しかしながら、能・狂言・歌舞伎のような伝統芸術がはたして真の意味で芸術と呼べるものなのかどうか、これにはチト疑問があります。

 自分で説明するのは面倒なので、たとえば坂口安吾の論を借りるとすれば、「砂漠の中で砂金を拾うようなもので、自分には耐えられない」ということであります。
 確かに素晴らしいモノが存在します。しかし、それは現代では理解しにくい様式・言語等の中にあり、その中から価値のあるものを拾ってくるのは結構大変です。
 見ているほうに、無理してそういうものをありがたがるという傾向はないでしょうか(人間はいとも簡単に先入観に左右されることを思い出してください)。
 コスト(時間や労力も含める)/パフォーマンスが悪い、という安吾師匠の意見に全面的に賛成するワタクシなのであります。
(他の逆の例をあげれば、バレエやオペラなんかはむしろ古さを感じさせないところがあります)
 
 
 話は変わりますが、狂言。これは「お笑い」です。もともとの出発点は批判・風刺精神や、自虐的なまでに自己を客体化する視線とかなんだと思いますが、こういうのは現在の演者にも溢れんばかりに存在すると胸を張っていえるんでしょうか。

 あと、これもちょっと話がずれますが、今流行の三味線。私もTVでは結構見てますし、村上秀一のソロアルバムの高橋竹山のプレイはスゴクいいと思いましたが、往々にして手癖だよりのテクニカルな面に頼りすぎているのが気に入りません。

 様式美というのは確かにあります。
 ブルースなんかはその最たるものです。しかも、(へたくそな)手癖一本槍かもしれません。
 しかし誰もそんなことに注意を払う人なんかおらず、その精神性やエネルギーしか問題にされてないはずです。
 
 なんか伝統芸能というのは、そういう最も重要なところが置き去りにされ、形骸化しやすい性格があるような気がします。
 
 ここで、まとめとして何か提言とか考えていたんですが、やめにしときます。
 
 
PS
 一番砂金を拾うようなものは、2chであります。
 

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