大庭浩さんのこと2
2002年4月27日 大庭浩氏は、K重工の社長として10年以上にわたり類まれなリーダーシップを発揮した人で、現在は神戸商工会議所会頭、阪神淡路産業復興推進機構理事長の他、数え切れないほどの財団の長や審議会の委員を務めている。
ロクでもない財界人が多い中で、あの土光敏夫などと並ぶ「真の傑物」といえる人だと思う。
20年近く前、私が配属されたのは従業員数にして1000人もいない小さな事業部だったが、その長が大庭氏だった。その前はなんと技術研究所で溶接を専門としており、日本の鉄骨高層ビルの多くを手がけたと聞く。(大阪大学出の工学博士)
おそらく技術研究所では珍しい使える人材と評され、将来の経営陣候補として、その最初のテストを兼ねて不振小事業部に送り込まれたものだと思う。
私が配属されて数ヵ月後にはまた別な事業部の建て直しに出て行ってしまったのだが、まあこれがスゴイ人だった。
まず眼光が並ではない。それも刺すようなそれではなく、あたりを明るくするように放射している(マジ)。風貌はガッチリ型の野獣系で、底知れぬパワーと包容力を感じさせた。
不振事業部の建て直しには当然厳しいリストラも行ったのだろうが、それでも憎んだり悪く言ったりする人がいなかったのも、その人格によるところが大きかったのだろう。
それまでにも中学から大学までの先生なんかで尊敬できる人や頭のいい人はいたが、あらゆる面でケタ違いのスケールの大きさを持った人だった。特に大局的見地から全体を考える構想力、そして指導力にはものすごいものがあった。
直接話をしたのは数回しかなかったが、とにかくそのカリスマ性には圧倒されたものである。
配属先の上司にも恵まれた。
一人は東北大出で小田和正の友人と言っていたが、痩せ型のインテリ趣味人で切れ者。もう一人は東工大出で、気分屋だがパワフルで、見なりに無頓着な自然人。
このお二人は能力も抜群で、モノホンの学卒はそんなことができるのか、と関心させられることしきりだった(ヲイ。 また、大庭氏の薫陶か、仕事はもちろんのこと、人生を楽しんでいる姿が印象的だった。
私の場合、仕事がイヤでイヤでしょうがない点はまったく違っており、国体やオリンピック強化合宿などのスポーツ選手としての活動ばかりしていたのだが、こんな月給泥棒をまあよく我慢して使ってくれたものだと思う。
それでも仕事の方は、小さな事業部だったので、研究・設計だけでなく、営業めいたものやトラブル処理などさまざまなことをやらされ、また日本で始めてという石炭液化処理プラントのメイン機械(本体だけで3億円!)を一人で任され、新聞雑誌やテレビで紹介されたこともあった。
5年勤めて辞めたのだが、そのときの目標は、そのスポーツ関係の専門分野で一人前になること、そして文章書きとしてのトータルな実力を身につけることだった。
幸いにしてその目標は2つともなんとかなったわけだが(実際に稼げるかどうかは別としてね)、やっぱり社会に出てからすぐ近くにいる人の影響は大きいと思う。
たとえば、その後どんなエライ人に会っても気圧されることは全くなかったし、いろいろな人の能力や仕事のやり方も冷静に眺めることができた。ヤバイ局面に立ったときも割と落ち着いていられる方である。
今にして思うと、こういった人や仕事に関するいい意味での基準ができていたからこそ、それほど不安なしに脱サラできたのであろう。
独立などには別に本人の能力が最高である必要はなく(上には上がいるし)、自分にしかできないことが何かあればいいわけで、できないものは誰かに任せればよろしいんである。
入社される若い皆さんに説教たれるつもりは毛頭ないが、人そして仕事の面において、できるだけ早く、できるだけ高いレベルのものに触れること、そしてそれをベースとして目標を高く持つことは、将来独立するかどうかとは関係なく、かなーり重要なことではないかと思うのである。
まあ要するにいい師が必要である、ってことでもありましょうか。
PS1
私がゼヒ会っておきたかったと今でも思うのは、生きていれば将来のIOC会長候補といわれます荻村イチロー氏であります。
PS2
新しいエディタを試してまして、更新が遅れました。MKエディタ、なかなかよろしいようでございます。
ロクでもない財界人が多い中で、あの土光敏夫などと並ぶ「真の傑物」といえる人だと思う。
20年近く前、私が配属されたのは従業員数にして1000人もいない小さな事業部だったが、その長が大庭氏だった。その前はなんと技術研究所で溶接を専門としており、日本の鉄骨高層ビルの多くを手がけたと聞く。(大阪大学出の工学博士)
おそらく技術研究所では珍しい使える人材と評され、将来の経営陣候補として、その最初のテストを兼ねて不振小事業部に送り込まれたものだと思う。
私が配属されて数ヵ月後にはまた別な事業部の建て直しに出て行ってしまったのだが、まあこれがスゴイ人だった。
まず眼光が並ではない。それも刺すようなそれではなく、あたりを明るくするように放射している(マジ)。風貌はガッチリ型の野獣系で、底知れぬパワーと包容力を感じさせた。
不振事業部の建て直しには当然厳しいリストラも行ったのだろうが、それでも憎んだり悪く言ったりする人がいなかったのも、その人格によるところが大きかったのだろう。
それまでにも中学から大学までの先生なんかで尊敬できる人や頭のいい人はいたが、あらゆる面でケタ違いのスケールの大きさを持った人だった。特に大局的見地から全体を考える構想力、そして指導力にはものすごいものがあった。
直接話をしたのは数回しかなかったが、とにかくそのカリスマ性には圧倒されたものである。
配属先の上司にも恵まれた。
一人は東北大出で小田和正の友人と言っていたが、痩せ型のインテリ趣味人で切れ者。もう一人は東工大出で、気分屋だがパワフルで、見なりに無頓着な自然人。
このお二人は能力も抜群で、モノホンの学卒はそんなことができるのか、と関心させられることしきりだった(ヲイ。 また、大庭氏の薫陶か、仕事はもちろんのこと、人生を楽しんでいる姿が印象的だった。
私の場合、仕事がイヤでイヤでしょうがない点はまったく違っており、国体やオリンピック強化合宿などのスポーツ選手としての活動ばかりしていたのだが、こんな月給泥棒をまあよく我慢して使ってくれたものだと思う。
それでも仕事の方は、小さな事業部だったので、研究・設計だけでなく、営業めいたものやトラブル処理などさまざまなことをやらされ、また日本で始めてという石炭液化処理プラントのメイン機械(本体だけで3億円!)を一人で任され、新聞雑誌やテレビで紹介されたこともあった。
5年勤めて辞めたのだが、そのときの目標は、そのスポーツ関係の専門分野で一人前になること、そして文章書きとしてのトータルな実力を身につけることだった。
幸いにしてその目標は2つともなんとかなったわけだが(実際に稼げるかどうかは別としてね)、やっぱり社会に出てからすぐ近くにいる人の影響は大きいと思う。
たとえば、その後どんなエライ人に会っても気圧されることは全くなかったし、いろいろな人の能力や仕事のやり方も冷静に眺めることができた。ヤバイ局面に立ったときも割と落ち着いていられる方である。
今にして思うと、こういった人や仕事に関するいい意味での基準ができていたからこそ、それほど不安なしに脱サラできたのであろう。
独立などには別に本人の能力が最高である必要はなく(上には上がいるし)、自分にしかできないことが何かあればいいわけで、できないものは誰かに任せればよろしいんである。
入社される若い皆さんに説教たれるつもりは毛頭ないが、人そして仕事の面において、できるだけ早く、できるだけ高いレベルのものに触れること、そしてそれをベースとして目標を高く持つことは、将来独立するかどうかとは関係なく、かなーり重要なことではないかと思うのである。
まあ要するにいい師が必要である、ってことでもありましょうか。
PS1
私がゼヒ会っておきたかったと今でも思うのは、生きていれば将来のIOC会長候補といわれます荻村イチロー氏であります。
PS2
新しいエディタを試してまして、更新が遅れました。MKエディタ、なかなかよろしいようでございます。
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