ご存知の通り私はいわゆるライターとしてプロ経験がある。
それは20代後半だったが、当時は元気な有名編集者も多くいて、数年間、自分なりに面白い仕事をさせてもらった。
現在やっていないのは、別に筆が立たなかったわけではなく、少なくとも自分は「取材する側ではなくされる側にいたい」と思ったから。これは私の数少ないオリジナルの中でもよくできたスローガンだと思っている。
たとえば出版社に就職希望の方もいらっしゃるようだが、基本的にそのあたりの考え方は押さえておいた方がいいのではないだろうか。
さて「文才」というお題であるが、少なくとも私はプロの世界でその言葉を聞いたことがない。その代わりに聞くのは、「読みやすさ」である。
レベルの高い編集者は、ライターの書いた文に対して、決していいとか悪いとかは言わない。その代わり「読みやすい」という言葉をよく使う。たとえば原稿を直すと「ずいぶん読みやすくなりました」とくる。版で押したように皆そう言うので、最初はおかしかったものである。
この「読みやすさ」は、ご想像の通り、一般の人が考える読みやすさとは少し違う。
編集者は、ライターに原稿を頼むときにすでにイメージしているものがあるわけで、それと違うと読みにくいのである。
切り口や視点自体が違っていると「読みにくい」。
筋立てに不備があったり冗長だったりすると「読みにくい」。
当然考察すべきもの、言及すべきものが抜けていたりすると「読みにくい」。
一方でライターは、編集者の意を汲むのは当然として、さらにそのイメージを越えるようなもの、いい意味で裏切るものを書いてやろうと思う。
実は私も、発売された雑誌に覚えのない原稿が載っていて唖然としたことが一回だけあるのだが、それは基本的な視点の違いから、編集者が勝手に全文を書き直したものであった。
今は知らないが、昔の一部の編集者は結構鬼畜入っていたし、またライター側も含めて皆、こだわりがあったと思う。
(これは現在の小説の世界も同じようなもので、テーマから材料から編集者が用意して仕掛け、アドバイスの上、出来たものをいやんなるほど修正させてやっと本ができあがる場合も多い)
ただし、一般的な意味でいう読みやすさは、プロとして絶対に不可欠なものである。
BSフジの村上秀一の番組で吉田美奈子が「プロは上手くなくてはいけない。ヘタウマはありえない」と言っていたが、まったくそのとおり。文の場合はそれが一般的な読みやすさに相当する。
そして、その追求には限度がない。
もし文章が上手くなりたい人がいたら、まずは読みやすさを念頭に置いてもらいたいと思う。「小学生にもわかるように」って言い方があるが、できるだけ理解できる年齢を下げることも必要。
小難しい文を書くのは、名前が売れてからの話だ。内容に関しては後述する。
(ただ、皆さんの少なくとも日記に関しては、読みにくい、ってことはあんまりない。てゆうか読みにくければ読まない。)
読みやすさについては、私もずいぶんこだわりがある。
いつもテキストエディタで文を書くのだが、フォントはMSゴシックの9ポイント、行間を1.5行にしている。一行は全角20字または40字である。
WEB上の場合、行間が狭い場合が多く、文自体は問題なくても読みにくいときがある(なので、私も空行を多く入れるなどして、いろいろ工夫している最中である)。
また書く側で句点以外の場所に勝手に改行を入れる人もいるが、それには反対(最終的に一行何文字入る媒体に転載されるかわからないから・・・詩の場合は別だが)。分かち書きなどは論外だと思う。
基本的にそういうの(一行の文字数や行間、フォント)はブラウザでも設定できるようにしてもらいたいものだ。
なお、一行は60字でも読みやすい文は可能なはずで(印刷物ではたまにある)、そうすることでスクロール量を減らすこともできると思うのである。
ちなみに、このダイアリーノートのフォントは一定ピッチではなく妙に可愛らしい印象を受けるもので、実はそういった文体がマッチしている(読みやすい)ようなんだが、どう思われますか?
続きは明日。
PS
実は、個人的には文才というのはあると思ってます。
それは、あっという間にすらすらと、何の修正の必要もない文を書く人。聞くところによると芥川だか三島だかがそうだったらしい。
私の場合、最初に書いてみた文は、最終的に出だしからケツまで、ほとんど原型をとどめないのが常でした。ですからそういう意味では文才はありませんで、実は今プロパーでやってないのは、時間ばっかりかかってリツの悪い商売だったってこともあります。
ということで、とりあえず書き殴っているこの日記で私を評価されても困ります。もしカネを取る文ということであれば、たとえばネタは同じでもまるっきり違う書き方をしていると思うワケです。
それは20代後半だったが、当時は元気な有名編集者も多くいて、数年間、自分なりに面白い仕事をさせてもらった。
現在やっていないのは、別に筆が立たなかったわけではなく、少なくとも自分は「取材する側ではなくされる側にいたい」と思ったから。これは私の数少ないオリジナルの中でもよくできたスローガンだと思っている。
たとえば出版社に就職希望の方もいらっしゃるようだが、基本的にそのあたりの考え方は押さえておいた方がいいのではないだろうか。
さて「文才」というお題であるが、少なくとも私はプロの世界でその言葉を聞いたことがない。その代わりに聞くのは、「読みやすさ」である。
レベルの高い編集者は、ライターの書いた文に対して、決していいとか悪いとかは言わない。その代わり「読みやすい」という言葉をよく使う。たとえば原稿を直すと「ずいぶん読みやすくなりました」とくる。版で押したように皆そう言うので、最初はおかしかったものである。
この「読みやすさ」は、ご想像の通り、一般の人が考える読みやすさとは少し違う。
編集者は、ライターに原稿を頼むときにすでにイメージしているものがあるわけで、それと違うと読みにくいのである。
切り口や視点自体が違っていると「読みにくい」。
筋立てに不備があったり冗長だったりすると「読みにくい」。
当然考察すべきもの、言及すべきものが抜けていたりすると「読みにくい」。
一方でライターは、編集者の意を汲むのは当然として、さらにそのイメージを越えるようなもの、いい意味で裏切るものを書いてやろうと思う。
実は私も、発売された雑誌に覚えのない原稿が載っていて唖然としたことが一回だけあるのだが、それは基本的な視点の違いから、編集者が勝手に全文を書き直したものであった。
今は知らないが、昔の一部の編集者は結構鬼畜入っていたし、またライター側も含めて皆、こだわりがあったと思う。
(これは現在の小説の世界も同じようなもので、テーマから材料から編集者が用意して仕掛け、アドバイスの上、出来たものをいやんなるほど修正させてやっと本ができあがる場合も多い)
ただし、一般的な意味でいう読みやすさは、プロとして絶対に不可欠なものである。
BSフジの村上秀一の番組で吉田美奈子が「プロは上手くなくてはいけない。ヘタウマはありえない」と言っていたが、まったくそのとおり。文の場合はそれが一般的な読みやすさに相当する。
そして、その追求には限度がない。
もし文章が上手くなりたい人がいたら、まずは読みやすさを念頭に置いてもらいたいと思う。「小学生にもわかるように」って言い方があるが、できるだけ理解できる年齢を下げることも必要。
小難しい文を書くのは、名前が売れてからの話だ。内容に関しては後述する。
(ただ、皆さんの少なくとも日記に関しては、読みにくい、ってことはあんまりない。てゆうか読みにくければ読まない。)
読みやすさについては、私もずいぶんこだわりがある。
いつもテキストエディタで文を書くのだが、フォントはMSゴシックの9ポイント、行間を1.5行にしている。一行は全角20字または40字である。
WEB上の場合、行間が狭い場合が多く、文自体は問題なくても読みにくいときがある(なので、私も空行を多く入れるなどして、いろいろ工夫している最中である)。
また書く側で句点以外の場所に勝手に改行を入れる人もいるが、それには反対(最終的に一行何文字入る媒体に転載されるかわからないから・・・詩の場合は別だが)。分かち書きなどは論外だと思う。
基本的にそういうの(一行の文字数や行間、フォント)はブラウザでも設定できるようにしてもらいたいものだ。
なお、一行は60字でも読みやすい文は可能なはずで(印刷物ではたまにある)、そうすることでスクロール量を減らすこともできると思うのである。
ちなみに、このダイアリーノートのフォントは一定ピッチではなく妙に可愛らしい印象を受けるもので、実はそういった文体がマッチしている(読みやすい)ようなんだが、どう思われますか?
続きは明日。
PS
実は、個人的には文才というのはあると思ってます。
それは、あっという間にすらすらと、何の修正の必要もない文を書く人。聞くところによると芥川だか三島だかがそうだったらしい。
私の場合、最初に書いてみた文は、最終的に出だしからケツまで、ほとんど原型をとどめないのが常でした。ですからそういう意味では文才はありませんで、実は今プロパーでやってないのは、時間ばっかりかかってリツの悪い商売だったってこともあります。
ということで、とりあえず書き殴っているこの日記で私を評価されても困ります。もしカネを取る文ということであれば、たとえばネタは同じでもまるっきり違う書き方をしていると思うワケです。
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